2019/07/27
1919年3月1日、大日本帝国に併合された朝鮮で独立運動が起こりました。以降、太極旗を手に「独立万歳」を叫ぶ運動は、数カ月続き200万人以上の朝鮮人が参加したと言われます。約2千万人が当時の朝鮮半島の人口からすると10人に一人が運動に関わったことになります。
日本は朝鮮の覇権を争い日清戦争と日露戦争に勝利し、米国の支持を得ながら、1905年、大韓帝国と乙巳保護条約を締結。大韓帝国は外交権限を日本に託し、実質的に独立国の立場を失いました。漢城(現在のソウル)には韓国総監が置かれ、日本政府主導の行政が導入されました。初代総監は内閣総理大臣を初代から数度歴任した伊藤博文でした。1907年にオランダのハーグで開催された第2回万国平和会議に大韓帝国皇帝の高宗は密使を送り、外交権を奪った日本との条約は無効であり、外交権回復を国際社会に訴えようとしました。これを知った伊藤博文は高宗を退位させ、子の純宗に譲位させたのです。
1909年10月、伊藤が安重根によって暗殺された後、1910年8月大韓帝国は一切の統治権を完全かつ永久に日本に譲与する条約に調印し、韓国総監は朝鮮総督府に変更。庁舎は現在の景福宮内に建設されたのです。陸軍大臣の寺内正毅や元帥陸軍大将の長谷川好道が総督として、朝鮮の武断的統治を強化しました。第一次世界大戦が終盤に入った1918年1月、米国のウィルソン大統領は民族自決や国際連盟の設立などを謳った14カ条の平和原則を発表。翌年1919年1月から始まったパリ講和会議に朝鮮の独立運動家は大きな期待を託し、新韓青年党の金奎植(キム・ギュシク)をパリに派遣しました。
しかし、朝鮮は政府の資格がないとして拒否され、さらには、民族自決がヨーロッパに限定された内容だったことから、朝鮮の独立は会議では議論されませんでした。同じく、高宗が1月21日に急死。東京では2月8日、約600人の朝鮮人留学生が神田の朝鮮YMCA会館に集まり、朝鮮独立青年団結成し、2.8独立宣言書を発表しましたが、出動した警察によって一斉検挙されました。後日、逮捕されなかった留学生が日比谷公園に集結し、デモで独立要求を訴えようとしましたが再度警察によって解散させられました。
朝鮮では、亡くなった高宗の国葬が3月3日に計画され、それに向けて、独立運動が準備されました。数多くの朝鮮人が独立を叫んだのは、日本の統治政策に対する憤懣が爆発したからではありません。朝鮮人の歴史的なアイデンティティに由来する普遍的な理想を実現しようとする使命感に突き動かされたものでした。日本を打ち倒すのではなく、日本と共に世界平和のパートナーとなることも訴えています。これは、3月1日に発表された独立宣言書に示されています。
「われらはここにわが朝鮮国が独立国であること、および朝鮮人が自由民であることを宣言する。これをもって世界万邦に告げ、人類平等の大義を克明し、これをもって子孫万代におしえ、民族自存の正当なる権利を永遠に有せしむるものである。半万年の歴史の権利によってこれを宣言し、二千万民衆の忠誠を合わせてこれを明らかにし、民族の恒久一筋の自由の発展のためにこれを主張し、人類の良心の発露にもとづいた世界改造の大機運に順応し、並進させるためにこれを提起するものである。これは天の明命、時代の大勢、全人類の共存同生の権利の正当な発動である。天下の何ものといえどもこれを抑制することはできない。」
「今日われわれがなさねばならないことは、ただ自己の建設だけである。決して他を破壊するものではない。厳粛な良心の命令によって自家の新運命を開拓しようとするものである。決して旧怨および一時的な感情によって他を嫉逐、排斥するものではない。旧思想、旧勢力に束縛され日本の為政者の功名心の犠牲となっている、不自然でまた不合理な錯誤状態を改善、匡正(きょうせい)して、自然でまた合理的な正経の大原に帰そうとするものである。」
「今日わが朝鮮の独立は朝鮮人をして正当なる生活の繁栄を遂げさせると同時に、日本をして邪道より出でて東洋の支持者としての重責を全うさせるものであり、中国をして夢寐(むび)にも忘れえない不安や恐怖から脱出させるものである。また東洋の平和を重要な一部とする世界の平和、人類の幸福に必要なる階梯(かいてい)となさしめるものである。」
3.1独立運動は天道教の教主だった孫秉熙(ソン・ビョンヒ)や同幹部の崔麟(チェ・リン)らが計画を作りました。独立宣言書の起草を託された歴史家の崔南善は、天道教指導者とキリスト教指導者の李昇薫らを結び付けることに貢献。仏教指導者の韓龍雲(ハン・ヨンウン)などの同意も得て、天道教・キリスト教・仏教指導者、合計33名が朝鮮民族代表として声明文に署名しました。朝鮮歴史上、先例のない宗派を超えた大同団結をもって発表された宣言には、普遍的な理想に対する希求が描かれ、恩讐を許し、共に平和建設の道を歩む決意が表明されました。学生たちが作成した2.8独立宣言書の「日本に対して永遠の決戦をなすのみ」という論調とは異なる次元の宣言となりました。
宣言書は2月27日、天道教直営の印刷所で2万1千枚印刷されました。3月1日、京城(現在のソウル)の仁寺洞にある中華料理店の泰和館で民族代表33人のうち29人が集い宣言文を発表しました。彼らは料理店店長に日本の憲兵に電話するように伝え、到着した憲兵によって逮捕されました。近くのタプコル公園では数千人の若者が集まり、「独立万歳」と叫びながら市内をデモ行進しました。
この独立運動は、宣言文の公約三章で訓示したように、非暴力で秩序を守った民主的な運動となり、朝鮮全域に広がりました。日本の警察や軍隊がデモの鎮圧にあたり、朝鮮人の数多くが死傷しました。3.1独立運動の後、当時49歳だったインドのガンジーはイギリスの統治政策に抗議し、有名な非暴力・不服従運動を開始したのでした。
宣言書の民族代表として逮捕され西大門刑務所に収監させられた韓龍雲は、獄中で「朝鮮独立の書」を執筆。独立宣言の動機や理由を説明しつつも、下記のように、日本と朝鮮の親善は東洋の平和にとって不可欠であることを訴えました。
「日本が朝鮮独立を真先に承認すれば、朝鮮人は日本に対して合併の旧怨を忘れ、深い感謝の意を表すだけでなく、朝鮮の文明が日本に及ばないのは事実であるから、独立したのちに文明を輸入しようとするとき日本を舎(お)いてどこに求めようか。なぜか。西洋文明を直輸入することも絶対不可能なことではないが、道のりは遼遠で、来往も不便であるだけでなく、言語文字や経済上困難なことが多く、日本から言えば釜山海峡がわずか十余時間の航程で、朝鮮人の日本語、日本文を解する者が多いので、文明を日本から輸入するのは事半功倍(じはんこうばい)となる筈である。そうであれば朝・日の親善は実に膠(にかわ)と漆(うるし)の如くであり、東洋平和に何という清福であることか。日本人は決して世界の大勢に反して自損を招く侵掠主を継続する愚拳に出ることなく、東洋平和の牛耳をとるために朝鮮独立を真先に承認するだろう。」
3.1独立運動は朝鮮の中では結果的に失敗に終わりましたが、海外で独立運動を推進していた李承晩、呂運亨、金九らの活動家が中華民国の上海市で大韓民国臨時政府を4月11日に樹立。その活動を1945年8月15日まで継続させました。(文責・事務局)