2023/01/30
AKU Japanでは2022年12月17日、脱北YouTuberとして有名なキム・ヨセフさんを講師としてお招きし、オンラインセミナーを開催しました。
大変貴重な講演をいただきましたので、3回に分けて掲載いたします。
■北朝鮮でも多かった5人の兄弟姉妹の中に、長男として生まれて
はじめまして。キム・ヨセフと申します。
僕は1985年に北朝鮮の咸鏡南道(ハンギョンナムド)というところで、7人家族に生まれました。5人兄弟と両親で7人家族だったのですが、北朝鮮でも5人というのはちょっと子どもが多い方でした。なぜそんなに多かったかというと、僕の上に姉が3人いまして、父が長男で、どうしても息子が欲しかったらしく、僕が4番目に生まれ、さらにやっぱり男一人だとちょっと寂しいだろうということで、もう一人、下に弟が一人生まれました。それで5人兄弟になったのですが、北朝鮮でも、だいたい子どもは2人か3 人くらいが多かったです。
7人家族で、僕が覚えてる北朝鮮の子ども時代は、小学生の頃までは一応食料配給もあって、食料配給所というところに行けば、まあまあ食料をもらえました。だけどやっぱり子どもが5人もいて、いつも食料が 十分ではなかったのです。
それで僕はいつも食料が足りなかったので、祖父母の家で暮らしていました。北朝鮮といえば社会主義で、世帯主である父が働いて、それで家族全員が食料をもらって生活するわけですが、家族が多いので、どうしても食料がいつも足りず、いつも親戚の家とかで少しずつ支援してもらいながら暮らしていました。
■90年代半ば、多くの餓死者が出た「苦難の行軍」の中で
そういう生活が、子どもの頃ずっと続いていたのですが、それが1990年代に入って、ちょうど半ばごろ、北朝鮮の「苦難の行軍」という非常に経済的に厳しい時期がありました。急にそうなったわけではないのですが、90年代に入ってから少しずつ食料配給の量が減り始めました。
だいたい7歳〜8歳頃に食糧配給所に行くと、いつも食料配給をもらうためにすごく並んでいたのを覚えています。国が決めた定量がありますが、その7割〜8割くらいになり、徐々に半分になりました。いつも食料配給をもらうために、もうたくさんの人が、そこでいつも列になって、少しでも多めにもらうためにと苦労していました。
そのような厳しい経済危機の始まりの時期だったのですが、その時に僕もいつも両親と一緒に食料配給所に行きました。定量を全部もらってもいつも量が足りなかったのですが、そこからまた量が減り、それをもらってお粥みたいに水をいっぱい入れて、家族で少しずつ分け合って食べるという暮らしでした。90年代に入ってから、僕の家族以外にも、そのようなことが結構多かったです。
ちょうど94年に金日成が亡くなったのですが、そこからすごく飢饉が始まって、かなりの人が働いても給料ももらえず、食料ももらえないということで、餓死する人がすごく多くなりました。
■食糧難の中、家族はバラバラ、路上生活に
そんな中、僕の家族もそもそも食料配給があってもいつも足りなかったのに、さらに減って、もう国からもらう食料がゼロになり、食料が完全にどこからももらえなくなりました。
我が家では日頃、父が働いて国からの食料配給をもらい、加えて母が少し商売みたいなものをやっていました。田舎に行って米を安く買い、都会に行って少し高く売るようなことをしていました。しかしその商売もうまくいかなくなり、母が先にその時、その汽車の中で亡くなりました。
それで、父ひとりで5人の子どもを養うために、いろいろ頑張ったのですが、一人では力不足で、僕はその前から、ちょっと祖父母の家で暮らしたり、またちょっと自分の家で暮らしたりというのを繰り返していました。しかし祖父母の家もすごく苦しく、他の親戚も自分の子どもを腹いっぱい食べさせるのも厳しいっていうこともあり、兄弟たちも家にいても食べ物がないので、あちこちで路上生活を始めることになりました。それが1994年に金日成が死亡した後、2〜4年くらいの間に起きたことです。
僕の家は母が先に食料を商売をやっている途中で先に亡くなり、その後は兄弟が一人ずつ路上生活をして、町の中で物乞いをしながら、生活をしていました。しかしやっぱりどこに行っても食べ物が足りない時期だったので、一人ずつ亡くなっていきました。
僕もその時は一応、祖父母の家でちょっと生活したりしましたが、祖父も親戚から支援してもらって生活していたので、そこにも長くいられず、他の親戚の家に行ったりしていました。それが自分の10代です。10歳になる頃からそういう生活をずっと続けてました。
上の姉3人がその時、街の中で栄養失調になりました。もう本当にどこにいても食べ物がなかったので、その時に亡くなったと他の人からそういう話を聞きました。僕は亡くなるのは見ていませんが。
その時、僕はずっと路上生活を数ヶ月間してたのですが、 どこにいても人が 死んでいて、駅もそうでした。北朝鮮ではチャンマダンという闇市があります。そこで僕のような親のどちらかが亡くなるなどして、ちゃんと家の中で生活ができない子どもたち、コチェビと呼ばれる路上生活をする子どもたちが多くいました。朝に駅に行くと何人かの遺体があちこちにあって、当時の北朝鮮はそれが一人、二人ではなく、どこの町に行ってもかなり多かったです。
ですから当時の北朝鮮では、亡くなった人の身分とか、どこの誰かというのも、確認せずにそのままどこかの地面を掘って、そこに一緒に墓もなしで埋めました。どこで誰が亡くなったかも分かりませんでした。毎日そのように亡くなっていく人がいて、その中で僕の家族も姉三人が先に亡くなりました。そういう風に亡くなったという話を、同じ町に住んでいた人から聞きました。
■栄養失調の姉に、じゃがいもを分けてあげられなくて
僕が覚えてる一番下の姉の最後ですが、僕が祖父母の家にいる時に、ちょっと食べ物を求めてそこに来ました。姉は食べ物がなくて、栄養失調で足がすごく腫れ上がって、靴もちゃんと履けないくらいでした。そんな感じで杖に頼りながら来たのですが、祖父母も食べ物がなかったので、その時は多分6月〜7月頃だったと記憶していますが、その時期に主食と言ったらもうトウモロコシではなくジャガイモでした。僕がお昼としてもらったジャガイモは3つありました。それを1個、姉に分けてあげるのか、しかしもう少し食べたいという気持ちがあり、僕自身も2個でも足りないということで、自分で食べてしまい、それで別れました。
これが、自分が覚えてる姉の最後の姿だったのですが、今思えばあの時にもうちょっと、「じゃがいもが欲しい」と言われた時に、それを少し分けてあげれば良かったなと、、、それが少し苦しい気持ちがあります。
一番上と二番目の姉は、生活がバラバラになっていたため、どこで亡くなったか、確認もできないのですが、三番目の姉は祖父母の家に来て、ちゃんと歩けない状態で、そこから出て行き、その後は会えなくなりました。
■一緒に路上生活をした弟
そのように姉三人と分かれて、自分の弟が一人いましたが、弟と二人では祖父母の家で暮らすことができず、一緒に路上生活をしました。その時は父は父で、働いても給料をもらえないので、何か商売をやるということでいなくなっていました。僕たちは祖父母の家でちょっと一晩泊まって、長くいられないので次は母方の親戚の家を頼ったり、あるいは父の友達の家に行ったりし、そこで少し、一口でもご飯をもらったら少しは助かるという感じでした。
夜はずっと寝るところがなくて、駅とかあるいは停電によって止まってる電車の中で少し泊まったりしました。そして建設中の建物の地下みたいなところでゴミを集めて火をつけて、少し温まったりというような生活を、その秋から冬、数ヶ月間しました。それは僕らだけではなく、同様に両親がいない子どもたちや、何らかの事情で大人でもそういう生活をせざるを得ない人が 95〜96年の時には多くいました。
当時、弟は何とかして盗んででも食べていました。僕が覚えてる弟といえば、本当に男らしい性格であり、一方で僕はシャイで、あまり人前で「食べ物をください」とか言えないような、そういう性格でした。二人でいつもどこか親戚の家、あるいは父の友達の家に行って少しもらって食べる時もあれば、ない時は主にそのチャンマダン(闇市場)に行って誰かが食べるものを盗んで食べたり、落としたものを拾って食べたり、というのが全てでした。僕は拾って食べるのはできるのですが、誰かが食べる物を盗んで食べるのがちょっとできなくて、それはいつも弟がやってくれていました。
弟は盗んで一人で食べれば、もちろんそれでも足りないですが、兄である自分に分けるとさらに量が足りず、その上、盗んでくる途中で、もしその人が追ってきて捕まるとひどく殴られたりします。それに対して兄として横にいて何もできない辛さが自分にはありました。
■「また3月に会おう」
このまま二人でいても、兄としては本当に弟の荷物みたいになっていました。何度も祖父母の家にいき、一晩だけ泊まらせてくださいと頼みましたが、ある日、祖父母が「二人ともこんな生活をしていたら二人ともどこかで死ぬかもしれないから、とりあえず一人だけは何とか預かり、二人はちょっと難しいから、一人は母の親戚の方に行って何とかして、春になってまた戻ってきて」と、そう言われました。
それで弟に話したら、弟は「自分一人ならなんとか生き残れるから、お兄さんはとりあえず祖父母の家にいて、また3月に会おう」と言いました。それで別れることになりました。それが1月頃だったのですが、3月になれば草も生えるし、それでなんとか生きていけるということで、弟と3月にまた会おうと、駅で別れました。結局3月に弟と会うことはできませんでした。それが弟との最後だったのですが、僕の家族のうち、結局5人と別れることになりました。
【キムさんのYoutubeチャンネル】
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